[vol.1] ポランの生い立ち

メトロクス(以下M):まずは生い立ちとご両親について聞かせて下さい。

ピエール・ポラン(以下P):私はパリで1927年に生まれた。父はフランス人の歯科医で、母はスイス人だ。とても厳しい家庭だったよ。

M:どんな子供でしたか?

P:内向的な子供だよ。

M:芸術的な興味を持ちはじめたのはいつ頃ですか?

P:初めて感銘を受けたのは、車のデザインをしていた叔父が仕事の話をしたときだ。大きなショックを受けた。私が12歳の時、確か1940年の事だと思う。叔父はオープンで、愉快で感じが良かった。今でもいくつか叔父の描いたデッサンを持っているが、とてもモダンで驚いた記憶がある。

M:デッサンを見たのは戦時中ですか?

P:叔父とは南フランスに疎開している時、半年程一緒に暮らしていた。叔父はロールスロイスやベントレーの仕事をしつつ、後にイギリス側のスパイとなった。パリに戻り車体工場を共同経営していたが、ドイツ人からも仕事が来ていた。メッサーシュミット戦闘機に関わる仕事だったと思う。

メトロクス

ポランの自邸。山の上にあることがよくわかります。

M:ドイツ人は戦闘機のデザインを頼んだのでしょうか?

P:そうだと思う。無線を使いイギリス側に情報を流している事が発覚し、ドイツの情報部に捕まってしまった。

M:それでどうなったのですか?

P:1942年に処刑されてしまった。

M:この戦争によってフランスの見方がかわりましたか?

P:私はフランス人である以前にヨーロッパ人だと思っている。だから国に対して私の立場はフリーだ。ヨーロッパの「希望」は協力しあう事だと今も思っている。

メトロクス

M:学生時代の事を聞かせて下さい。

P:疎開していた南フランスには父の仕事が無かったので、北のロンという町へ行った。城壁に囲まれた中世の町並みが美しい所だったよ。

M:学校では優秀な学生でしたか?

P:全然優秀では無かった。むしろその逆だ。

M:勉強が好きでは無かったのですか?

P:学校の授業には興味が無かった。

M:アートに対してはどうでしたか?

P:やはり興味無かったよ。その頃の私は冬眠状態だった。影のように過ごしていた。でも理解して欲しい、占領時代は大変だったのだ。ドイツ人は父が叔父と共犯だと思い見張られていたし、祖母と母はドイツ語を話していたので、町の人からはドイツ人だと言われていた。大変厳しい状況だったよ。

M:それではいつ頃アートに関わり始めたのですか?

P:アートか・・・私は最初アートよりも技術的な事に興味があった。私には大事な大叔父がもう一人いた。彫刻家だった祖母の兄だ。私は大叔父の影響から、職業訓練校でモデリングとデッサン、石の彫刻を習った。夏も冬も見習いとして毎朝石工と一緒に働き、石で人体を作ったりしていた。しかし、ある日事故にあって右手が麻痺してしまい、仕事を辞めなくてはならなくなったのだ。

M:今でも右手に不自由があるのですか?

P:神経が切断されてしまったからね。

M:あなたの審美眼はどこで養われたのですか?

P:審美眼は養成されるものでは無い。でも後にカモンドという室内装飾学校で古い様式について学んだよ。建築家にもなりたかったが、そこでは資格が取れなかった。その学校ではヨーロッパの古いスタイルについて学んだけど、特に興味のわく内容では無かったな。しかしたくさんの事を学んだのは確かだ。たとえばルイ15世紀様式の椅子のような複雑な形態を頭の中で回転させる事もできるようになったよ。

M:卒業生は主に修復の仕事に就くのでしょうか?

P:そうだと思う。しかしこの学校の教師の一人が、君はこの学校に向いていないと言って、当時フランスで最もモダンだったと思われるデザイン事務所を紹介してくれたのだよ。