vol.3 デザイナーへの軌跡

コロンボ家ではジョエとジャンニという二人の息子を美術学校に進ませました。
息子たちに好きなことをさせて様子をみようと思ったのです。

M:コロンボのご実家は経済的に裕福だったのですか?

F:お父さんが事業家で電気部品をつくる会社経営していました。ミラノ郊外のブリアンツァのお金には困らない家庭だったようです。

M:コロンボのお父上はアートに興味がありましたか?

F:いいえ、まったく興味ありませんでした。

M:それでは、どうして二人の子供にアートの勉強をさせたのですか?

F:当時の企業家は、自分の子供たちが高校で仕事に役に立つことをきちんと学んでから会社の跡取りとして仕事をしてほしい、という考えをもっていました。例えば、中学校や高校の先生、あるいは会計士の資格を取ることは、将来の収入が約束されると考えられていました。そのうえで、少しでも早く学校を卒業して家業を手伝ってほしいと願っていました。

M:そういう資格を取って欲しい、というのは会社が潰れたときのためですか?

F:そうですね。もちろん家業をついでもらうことが一番なのですが、とはいえ会社の経営状況が悪化するとか、最悪はつぶれてしまうこともありますからね。資格さえ持っていれば仕事を見つけることができます。ですから、いうなれば生き残るための手段ですね。人は生きるために働きます。そのための最低限の資格はとっておかなくてはならない、ということですね。

ジョエとジャンニ

ジョエと弟のジャンニ・コロンボ

M:こういったことは現代にも当てはまる、といえるのでしょうか?

F:そうですね、昔ほどではないにしてもそういえますね。
あの頃の企業家の間では、大学を卒業することは時間の無駄だ、と考えられていました。大学に行くことはいろんな面から考えて贅沢だと。
特に、当時は戦後で社会全体が貧しく人々に余裕もなかったですからね。大学卒業証書があれば、次のステップである就職にはつながりますが、それ以上のプラスアルファを評価する空気には乏しかったですね。
そういう環境ですから、息子にジオメトラ(建築鑑定士)や、あるいは会計士のような経営に直接役立つ資格をもっていてもらったほうがよっぽどいい、と親は考えたのです。
ただ、コロンボ家ではジョエとジャンニという二人の息子を美術学校に進ませました。そういう方面の素質があったからです。ジョエのご両親は、子供達の意思に反して資格をとらせたり、普通高校に通わせたりするより、息子たちに好きなことをさせて様子をみようと思ったのです。

M:それで彼らは二人とも芸術高校に行ったのですか?

F:はい。ジョエと弟は7年の年の差があったのでいっしょに通ったわけではありませんが。
学校は5年間通わなければいけないので、ジョエが卒業してから弟が行き始めました。

ジョエ・コロンボ

アート活動をしていたころのコロンボ

M:コロンボのお父上は、彼ら息子の芸術的才能をいつ頃みたのでしょうね?

F:中学校の頃にはすでに気がついていたようですよ。二人とも絵を描くのがとても上手でしたから。それで学校の先生がまず彼らの才能に気がついたのです。

M:そうなのですか、彼らの才能を見出したのはお父上ではないのですか。

F:はい。特に当時のイタリアでは父親は子供にあまりかまわなかったので、そういったことに父親は気がつかないものです。ですからジョエたちの場合も先生がご両親に、「この子はとても才能がありますよ」と伝えました。芸術高校に進んだのも学校の先生に薦められたからです。

M:コロンボはとてもおしゃれですが、お父上もそうだったのでしょうか。

F:お父さんは私がジョエと知り合う前にすでにお亡くなりになっていたから、よくわかりませんね。お母様のほうはよく知っています。とても気さくな方で、彼女ご自身も良い家柄の出身です。とても元気いっぱいのすばらしい方ですよ。

M:お母上は働いていたのですか?

F:いいえ、外で働かず、家庭の主婦でした。主婦以外に何もさせてもらえなかったといいますか・・・。

M:ブリアンツァあたりで自営業をしている人たちの奥さんは、今は旦那さんと一緒に働いてる人が多いですが、その時代は、奥さんは働かないのが普通だったのですね。

F:そうですね。子供の世話をしていました。子供の送り迎えをしたり、スキーに連れて行ったり、海や山に連れて行ったり、特に湖ですね。そういった場所に連れていって子供を自然に触れさせていました。

M:コロンボはガキ大将だったのですか?(笑)

F:いいえ、ただとても元気のいい子だったようです。大人になってもその元気のよさは変わりませんでした。好奇心旺盛で、彼はまわりで起きていることに対し、いろいろなことを知りたがりました。友達も多かったですし、仕事や研究に積極的で、とにかくじっとしていられない人でした。

M:彼は図画工作でいうならば、図画、工作、どちらが得意だったのでしょう?

F:工作しているところを見たことはないですね。絵を描くのがとても上手で遠近法も得意でした。物体をどんな角度からも描けました。コンピューターでいう3Dレンダリングですね。 生きたコンピューターのようでした。この後ろはどうなっているのかしら、と私が言うとすぐさっとその部分を描いたのですよ。しかも手描きで。凄い才能です。そのようなことができる人、彼以外に見たことありません。

M:50年代初期、コロンボはエンリコ・バイやセルジオ・ダンジェロ等と「アルテ・ヌクアーレ」という芸術活動に参加していたと聞いています。この経緯を教えて下さい。

F:バイやダンジェロは学校の友人でした。

M:芸術専門高校のですか?

F:いいえ、ブレラのアカデミアですね。同じコースをとっていたわけではありません。アルテ・ヌクレアーレという芸術流派をつくり、よく集まっていたんです。彼らとはアトリエも作りました。エンリコ バイがそこを仕切っていました。彼らはみんな新しい芸術運動に興味を持っていました。そもそもヌクレアーレというのは、物事の本質、核心を追求することを意味します。本当に一生懸命でした。

M:その頃、ミラノのアートは欧州の中でどういうポジションにあったのですか?

F:このヌクレアーレ運動というのは当時のイタリアで唯一の近代芸術運動で、とても重要な意味を残しました。ヌクレアーレ運動は原爆が落とされた現実を発想の原点にしています。
彼らはこの運動に集中し、海外にも出かけていました。この頃から若者たちが外に出始めましたね。戦争が終わるまでは国外に出ることができませんでしたから。国外に出ることが許されたのはほんの一部の人だけでした。

M:たしか、このときヌクレアーレがベルギーかどこかで展覧会をしたようですね。

F:初めて聞きますね。本当に詳しいことをよくご存知ですね。私はジョエが私に話してくれたことしか知りません。なにか出版されるときはドキュメントなどの確認はしましたけれど、ジョエは自分の芸術活動をあまり話したがろうとはしませんでした。
というのも弟さんの名前も知られるようになってきて、同じ名前だと自分と弟さんの活動を勘違いされこともあるのじゃないかと心配していたんですね。そういうことはよくありますから。ですから自分はデザイナーだからデザイン画さえ描いてさえすればいい、それ以上の話をするつもりはない、という姿勢でした。

アート作品

アート作品

ジョエは建築、その後インテリアや内装を手がけるようになり、
それから家の中にあるものをデザインするようになりました。

M:コロンボはアーティストから建築家になったのですか。

F:建築、その後インテリアや内装を手がけるようになり、それから家の中にあるものをデザインするようになりました。

M:それらの作品を見るとほとんど61年のものばかりですが、短期間しか建築をしていなかったのですか?

F:これらは企画しただけです。実際には作られていません。これだけは実際作られてトリエナーレに出されました。そのうちインテリアをやり始めるようになって建築をやめてしまったんです。

M:正確には何年に建築からデザインに転向したんですか?

F:はっきりとはいえませんが、1960年代の初めですね。建築はミラノで家を1軒手掛けただけです。

M:建築をやめたのは、インテリアのほうが経済的に有利だったのですか?

F:まぁ、特に理由があったわけではありませんが・・・。知り合いの建築家と事務所を設立するつもりでいました。それでこういった建築の仕事を始めたのですが、その頃ホテルのインテリアか何かで賞をとりました。

M:サルデーニャですね。

F:そうです。結構大きな仕事で、それからインテリアの分野に入ってきたのです。

M:金銭的な理由ではなかったのですね。

F:遺産で継いだ不動産からの収入がありましたからね。なんとかやってはいけましたよ。
特に理由がある、というより、自然にインテリアに流れていき、インテリアのほうをやってほしいお客さんが多くなってきて、それで仕事を続けた、ということですね。
私も今の仕事は偶然ですよ。コロンボと知り合ってデザインの仕事をするようになったのですから。才能があったわけではありません。この業界はつながりが大切なのです。ミラノの建築家は最初、デザイン、インテリア、建築、と何でも少しずつ手がけます。そして一番仕事の依頼がくるものを継続的にやるのです。

M:繰り返しになりますが、コロンボは建築家の資格があったのですか?

F:ジョエはデザイナーであって建築学科を卒業したわけではありません。
みなさん建築家コロンボと呼びます。建築の意匠に携わりましたが、建築家としての資格をもっていたわけではありません。また、イタリアでは、工業デザインは建築家によって手がけられる分野のひとつになっていました。
これはイタリア独特であり、他の国は違います。他の国では工業デザインと建築は別々の分野として扱われます。というのも、イタリアにはその当時デザイン学校というものがなかったのですよ。今はもちろんありますよ。今では工業デザインで修士課程を卒業することもできます。
ですから建築を勉強する人は工科大学に行き、デザインと建築が分野としてきっちり分けられています。高校でもデザインを勉強できますし、デザイン専門学校もあります。
もう少し付け加えるとすると、昔はデザインという概念そのものが存在しませんでした。先にお話したように、家具は様式であり、モダン家具などはありませんでした。こういったものはすべて戦後にはじまったのです。

イグナツィア・ファバタ女史

M:ところで50年代の終わりごろ、お父上が病気になって車のセールスマンをやっていた、というエピソードは、経済的な理由からではないのですか?

F:たしかに、お父さんは心臓発作を起こしました。
それで家業を継いだのですが、いろいろ考えた末、会社をたたむことにしたんです。
それで事業の権利だけを売ったのですが、建物自体の所有権は残しました。

M:それはいつですか?

F:58年ですね。

M:商売の権利だけ手放して、不動産は残した、ということですね。

F:そうです。その建物から結構な賃貸収入を得ていました。経済的には余裕がありましたね。

M:ではお金に困り、車のセールスマンをやったわけではないのですね?

F:そうです。ただ彼は車がとても好きでした。それで安く車をディーラーから買い取って、友達に売ったりはしていました。
車のセールスマンをしていたわけではありませんよ。誤った情報が流れているんですね。
でも確かに彼はものを売るのが上手かったですね。それで車を買いたい、という友達がいれば、「自分がなんとかしてあげるよ」とやりとりに関わったのですね。
そこから「ジョエは車の売買をしている」なんて噂が流れたのじゃないでしょうか。

>> vol.4 コロンボとアート及び建築の文脈