vol.2 コロンボ事務所と60年代

私がここで働き始めたときは、弟さんが事務所にいました。
ジョエと弟さんは年が離れていたので、ジョエは父親がわりでもあり、よく面倒をみていました。

M:コロンボの事務所にはピーク時で何人ぐらいいらっしゃったのですか?

F:8人ですね。

M:皆さんすごく働いたのですね。10年間でこれだけの作品を生んだわけですから。

F:昼夜問わず、土日も働いていましたよ。

M:アクリリカは弟さん(ジャンニ・コロンボ/以下:ジャンニ)との共作といわれていますが、初期の頃はそういったものが多いのですか?

F:私がここで働き始めたときは、ジャンニが事務所にいました。事務所が2つに分かれていて、そのひとつにジャンニがいたのです。
ジョエとジャンニは年が離れていたので、ジョエは父親がわりでもあり、よく面倒をみていました。
ジャンニは照明器具の光の分散を研究していました。それを見ていたジョエがアクリルを曲げれば光が全体に伝わるんじゃないか、というアイデアを思いついたのです。

コロンボ281/アクリリカ

コロンボ281/アクリリカ[1962年]

もちろん弟の研究成果を横取りするなんてことはせず「一緒にやろう」ともちかけました。
製品の技術的な仕組みをいろいろと検討するのはジャンニがやり、形をジョエが考えました。
ただ、形といっても技術的なことを踏まえて作らなければいけません。例えば、光の屈折角があるのですが、ジョエはこの角度を変えれば光が外に漏れないと考えました。光の屈折が可能なところまで曲げることで形を決めたんです。つまり光の屈折度によって形が決まりました。

イグナツィア・ファバタ女史

photo Takehiko Niki

M:少々理解しづらいので、もう一度説明してもらえますか?

F:わかりました。アクリルはあまり鋭角に曲げられないのですよ。というのも曲げすぎると光がアクリル全体に伝わらず、外に逃げてしまうのです。これは、ジャンニがやっていた実験と関係があることでした。
アクリリカのベース部分の黒いボックスに蛍光灯が入っています。
その光が前側のアクリルの断面まで届くにはどのように曲げれば良いか、という実験をしました。ジョエは、少しずつ形を変えながら、光の屈折と光度をチェックしました。蛍光灯の光がベースのアクリルの断面部から伝わり、前側のアクリルの断面が光ります。蛍光灯の光がアクリルの中を屈折しながら先まで伝わるのです。
このアイデアはジョエが考え出したのです。
アクリルの中で光がどうやって動くかを研究していたのがジャンニです。アクリリカ自体を作ったのはジョエです。ただ、弟の研究成果を応用したので、この作品は共作、という形にしたのです。

M:アクリリカ以外には共作はないのですね?

F:一緒に作りたかったものは他にもあったのです。
ジャンニは試験的にいろいろ試していましたから、弟のやっているものを見て、自分の作品に活用したい、と思うものはあったんです。ただ、実現はされませんでした。

ジョエは好奇心旺盛でした。
読めないドイツ語のカタログをとってきて、成分や構造だけでも理解しようとしていました。

M:コロンボは新しい素材に積極的でしたが、どのようにその素材を見つけましたか?
見本市に行って自ら探したとか、あるいは、素材メーカーのほうからアプローチがあったとか。

F:彼はとても好奇心旺盛でしたので、外国の見本市などに行っては新しい素材を求めました。
例えばドイツには興味深い素材が多いので、見本市に行って読めないドイツ語のカタログをとってきて、成分や構造だけでも理解しようとしていました。
ドイツには、イタリアにない素材や部品を扱うメーカーがたくさん存在するのです。私たちはそういったところのカタログの中から材料を選んでは手本にしたり作品に応用したりしていました。アロジェーナはそうやって作られたものです。

ジョエが世界の照明器具電球のカタログを持ち帰って「照明器具をつくろう」というのです。
ジョエが見つけた電球は両端が磁器で出来ているハロゲン球で、たぶん車のライトにも使えるとても変わったものでした。
見本市からもってきたこの電球をどうやって作品に使おうか、と考えるところから始まったんです。その後の経過はさきほどお話しましたね。

M:ヴィジオナについて教えていただけますか?ヴィジオナは毎年開催されたのですか?

F:ヴィジオナはドイツの素材メーカーであるバイエルが仕掛けたキャンペーンで、ケルンの国際家具見本市内で行われていました。テーマは、このメーカーの素材を使って有名デザイナーや建築家が空間を仕上げることでした。

バイエルから与えられた素材でカーペットを考案したり、家の構成要素のそれぞれに彼らのPVCやABSを使い、その素材を紹介するのが目的です。
この時ジョエが与えられたテーマは、「未来の住居の為の提案」でした。「Night Cell」(ベッド、戸棚、バスルーム)、「Kitchen Box」(キッチン、ダイニング)、「Central Living」(リビング)の3つのスペースに機能的に分けられた、革新的なインテリアモジュールセットを提案したのです。

M:コロンボが担当したヴィジオナ1は1969年ですが、コロンボの他に起用されたのはパントンですか?

ケルンでのヴィジオナは3回ありました。コロンボが起用されたのがヴィジオナ1です。
ヴィジオナ0を68年にパントンが担当し、翌年はジョエ、その次の70年はまたパントンです。

Visiona1 - ヴィジオナ1

ヴィジオナ1

M:その他に素材メーカーとの協力関係はありましたか?

F:私たちはメーカーに資金的援助を特にお願いしませんでしたが、バイエルはヴィジオナ以外でも積極的に各方面の支援をしてくれました。
その他ではプリントですね。そこは素材研究という名目で、いろいろ挑戦させてくれました。

M:プリントですか?

F:メーカーの名前はアベットプリントです。現在もミラノサローネでは素材提供を行い、デザイナーをサポートし続けている「アベットラミネート」が、昔アベットプリントと呼ばれていました。
この会社は数々の展示会で新しい居住空間の提案をしていました。コロンボはこの会社の協力でブロッコクッチーナチェントラーレを発表したのです。
展示会場の一角に「ドムス研究」というコーナーを設け、そこでは完成されたデザインを通して将来に向けた新しい素材の提案をしていくのです。
この会社はこういう機会提供の形でスポンサー活動をしていました。
コロンボはプリントの素材のプラスチック薄板を使ったプロダクトをつくりました。その素材をとても気に入って、かなりいろいろなものに応用していましたね

ヒット作品ベスト3といえば、まずオールーチェの照明のアロジェーナですね。
またカルテルの椅子のユニバーサルもいまだにロイヤルティーが入ってきます。

M:コロンボ事務所でよく売れた商品を3つ教えてください。

F:オールーチェの照明のアロジェーナですね。またカルテルの椅子のユニバーサルもいまだにロイヤルティーが入ってきます。あとはポッツィの椅子のモデル300もそうですね。

M:スパイダーはどうですか?

F:スパイダーもそうですが、3つ挙げてください、とおっしゃったので。

M:では今挙げてくださったのがベスト3ですね。

F:いいえ、今挙げたのは年代的に古い順番です。

M:数量的にはどうですか?

F:数量的に売れたのはアロジェーナですね。
あとはユニバーサルです。ボビーも上位に入りますね。よく売れています。

M:有名だけれどもあまり経済的に成功しなかった作品は何ですか?

F:ボッフィのミニクッチーナですね。
かなりメディアには登場したのですが、3つぐらいしか売れてないんじゃないでしょうか。
ベルニーニのコンビセンターもかなり宣伝しました。色々なコピー商品もでてきたので、年に3つぐらいしか売れてないですね。

Universale and Model300 - ユニバーサルとモデル300

左)ユニバーサル[1967年] 右)モデル300[1966年]

M:今でも年に3つは売れているのですね。

F:ええ、少しモデルチェンジをしましたから。
つまり生産上、構造を変えたほうがいい部分があったのです。もっとシンプルにしました。
見た感じは前とあまり変わっていませんが、ずっとシンプルになったのですよ。

M:エルダという椅子は、コロンボ夫人の名前からとったのですか?

F:エルダは初期の作品ですね。とある有名な記者が出版した本に「Dove puoi trovare, chi puoi trovare(何処で、誰が見つけるか)」というのがあります。その中でコロンボとこの椅子のことが語られています。
奥さんのように丸々としたやわらかいソファにエルダという奥さんの名前をつけた、という感じのことが書かれているのです。奥さんは小柄でしたが、ふくよかな方だったのです。とてもかわいいお人形のような方でした。
それでソファが奥さんのようだったので、愛情をこめて名づけたのだと思います。

M:なるほど、あの椅子からコロンボ夫人をイメージすればよいわけですね。
コロンボとエルダの馴れ初めはご存知ですか?

F:共通の友達を通して知り合いました。当時は男女の交際が自由ではありませんでしたし、今のように女性が一人でディスコやバーに出入りするなんてできませんでした。
もし行くとすれば男性に同伴してもらっていましたね。彼らは友達を通じて知り合いましたし、当時はそういった方法でしか男女が知り合うことができませんでした。

Elda - エルダ

エルダ[1963年]

Boby Wagon - ボビーワゴン

ボビーワゴン[1970年]

M:ボビーがこれだけのロングセラーになると思っていましたか?

F:そうですね、ボビーは、すでに存在していたデザインデスクを少し機能的に変化させたものといえます。
ですから、この製品は設計やデザイン事務所などに本当によく売れたのです。
大きめの紙を扱う事務所でもかなり使われました。そういったものをまるめて置く場所が必要ですからね。
こういった現場の声を聞きながら、自分たちでいろいろ工夫し提案していったんですが、それが最終的にテーブルの下に置いて引き出しのかわりになったり、用途が広がったのです。

一般的な話ですが、60年代はメーカーが製品を作り始め、それで合意成立です。
メーカーも少なかったですし、みんなきちんとしていましたから、あまり問題がなかったのです。

M:60年代より30年以上の時間の経過がありますが、ロイヤリティー契約において現在と一番大きな相違点があるとすれば何ですか?

F:他の人たちのことは詳しくわかりませんが、ひとつ言えることは、現在はADI(Associazione Disegni Indutriale)という工業デザイン協会がより機能していることです。そこがデザイナーのかわりに契約を結びます。デザイナーたちはADIの基準に従ってロイヤリティーの計算をしています。
今、クライアントのメーカーと契約しない人はいないでしょう。私も契約しています。
しかし、当時は契約しないのが普通でした。作品自体も少なかったですからね。

M:再確認しますが、今はADIがデザイナー達をより保護しているということですね。
それに対して、60年代はこのロイヤリティーがいわば野放しになっていたということですね?

F:そうです。

M:今はADIがデザイナーと基本契約を結んで、デザイナーとクライアントの契約のサポートをすると理解して宜しいですか?

F:そうですね。でも私の場合は弁護士にお願いして契約を結んでいます。
一般的な話ですが、60年代はメーカーが製品を作り始め、それで合意成立です。
メーカーも少なかったですし、みんなきちんとしていましたから、あまり問題がなかったのです。
ですから、ちょっとした書類をつくって、「デザイナーはだれだれで、商品が売れたときにはロイヤリティーを払います。」といったことを記載する程度の簡単なもので十分でした。今は違います。今はもっと気をつけなければいけません。

M:私たちが他のデザイナーから聞くところ、よく売れているといわれる作品があるにもかかわらず、メーカーからロイヤリティーを受け取っていなかったケースも多いとのことです。それでも、コロンボの場合は問題なかったのですね。

F:一度も争いごとはなかったです。それから別の話になりますが、たいていのデザイナーはコピーされるのを嫌がりますが、そういう問題をジョエの場合は別に気にしませんでした。むしろメーカーが自分たちを保護すべきだといっていました。
すでによく知っているメーカーが20社ほどありますが、彼らとの関係は信頼のうえで成り立っているので、過去から作りつづけてきた製品に関しては新たに契約を結んでいません。但し、新しいものを生産する場合は契約書を作りますし、昔の製品でも違うメーカーで作るのであれば契約はします。

M:それにしても、ジョエ・コロンボというのは、顧客と良い関係を築くビジネスセンスに優れていたんですね

F:というより、ロイヤリティー収入自体は私たちの売上のほんの一部にすぎません。
知名度があったので、インテリアの仕事を請け負ったり、展示会での仕事も多かったのです。もちろんアイデアレンダリングだけの仕事もあります。
しかしたいていはデザインだけでなく、製品開発も含めた企画全体に対しての仕事の依頼でした。
そしてアリタリアの場合もそうですが、これらの仕事はロイヤリティーではなく、プロジェクトごとに一括で支払われていました。

アリタリアエアライン テーブルウェアセット

アリタリアエアライン テーブルウェアセット[1970年]

M:アリタリアのような国営企業の仕事は大きな仕事だったのですね?

F:そうですね。アリタリアの場合はコンペに3人のデザイナーが招待されました。
あとの二人は誰かわかりません。結果ジョエが選ばれました。
いずれにせよ、今もロイヤルティー収入だけで成り立たせるのであれば、グローバル規模での販売が必要です。私たちはその当時すでにヨーロッパの国々と仕事をしていましたが、それだけでも珍しいことでしたよ。
今はグローバル規模で仕事をすることは普通ですが。

個性的な作品を残した人はザヌーゾ、マジストレッティ、ソットサス、マーリなどですね。
それから、この時代で注目するべき人にガエ・アウレンティもいますね

M:ところで、60年代にこのようなデザイン事務所はどれぐらいありましたか?

F:かなりありましたよ。その頃はいうなればデザインブームでしたからね。メーカーも結構ありましたし、その中にはこの方面に参入し、投資をして活動を始めた異業種もありますね。
例えばカルテルなども、デザイン家具を生産する前は化学用のプラスチック試験管を作っていました。それからスコップ、バケツなどを作り始めて、そこから少しずつデザイン的なものづくりに移っていったのです。デザインブームといっしょに生まれた企業も多かったと言えます。
また戦前からすでにビジネスをしていた照明器具などの古い企業も、デザインの登場とともに変わっていきました。スティルノーボやオールーチェは戦後でてきたメーカーですね。

M:デザイン事務所は数としてはどれぐらいでしたか?

F:有名なのは10ぐらいでしょうね。他にも結構あったのですが、淘汰されていきました。
戦前はこういうモダンデザインはありませんでしたらからね。昔は様式でしかなかったのですよ。例えば18世紀のロココ調のソファなどですね。17世紀様式、18世紀様式、といった具合でした。もっともそういった様式は今でもありますね。

M:コロンボ事務所は、60年代にたくさんあったデザイン事務所の中で、経済的にどれぐらい成功していたのでしょうか。例えば上位3番以内に入りますか?

F:5番以内には入りますよ(笑)。この頃の有名な事務所はコロンボ、ザヌーゾ、カステリオーニ・・・、後は誰がいたかしら・・たくさんいましたね・・。

M:サッパーも?

F:サッパーはザヌーゾと同じ事務所でした。この頃はザヌーゾの事務所に勤めていましたね。

M:カッチャ・ドミニオーニはどうですか?

F:ちょっと分野が違いますね。モダンではありません。もちろんカッチャ・ドミニオーニもすばらしいですよ。伝統的なすばらしいものをつくりますね。とても職人的な方です。でもデザイナーというより職人ですね。

M:ベッリーニも60年代の人ですか?

F:ベッリーニもこの時代に既にいましたね。でもその頃はあまり有名ではありませんでした。まだ波にのっていなかったとでもいいましょうか。有名になったのはもっとあとですね。ですからベッリーニははずしたほうがいいですね。

M:マーリはどうですか?

F:あ、そうですね。エンツォ・マーリもいました。この頃いつも名前がでてきましたよ。

イグナツィア・ファバタ

photo Takehiko Niki

M:このころソットサスはどんな活動をしていましたか?

F:ソットサスもそうですね。ソットサスはコロンボとまったくタイプが違ったのですが、この2人は常に対比されていました。2人ともアートの分野で活躍していたので、ソットサスがいいとか、コロンボがいいとか、いつも比較されては話題になっていました。
ソットサスはデザイン志向が強く、コロンボはアンチデザイン派でしたが。

M:ソットサスはもっと後かと思いましたが。60年代に入るんですね。

F:そうです。その頃は経済的にはあまり成功していませんでした。売れ出したのはもう少し後からですね。

ああ、今思い出しました。あと活躍していたデザイナーの中にマジストレッティもいますね。建築家として有名で、個性的な作品を残した人はザヌーゾ、マジストレッティ、ソットサス、マーリなどですね。
それから、この時代で注目するべき人にガエ・アウレンティもいますね。

>> vol.3 デザイナーへの軌跡

Valentine - ヴァレンタイン

ソットサスが手掛けたタイプライター
ヴァレンタイン[1968年]