Riki Watanabe
ジャパニーズデザインのパイオニア

ギャラリートーク

Bruno Taut industrial arts, Design
レクチャーイベント『日本のタウト -眼差しと流儀-』
14th.Jan.2006

ブルーノ・タウト -工芸・デザイン-展の関連イベントとして開催したギャラリートーク『日本のタウト -眼差しと流儀-』。デザイン史家の森さんと、タウト来日時の当時を知る渡辺力さんによるギャラリートークの模様をお届けいたします。

vol.1 日本のタウト

【話し手】森仁史(デザイン史家)、渡辺力(デザイナー)

森:
タウトが1933年に日本にやってきて、技術指導やデザイン指導をした国立の組織は商工省工芸指導所と言いました。
その後タウトは高崎の井上房一郎氏に招かれて、デザイン指導に出かけます。
行かれた方もあるかもしれませんが、高崎の達磨寺にタウトが住んでいたときの洗心亭が今でもまだ残っています。おそらく畳の部屋に椅子を置く生活をしていたのだろうと思われます。室内の写真を見てもタウトがデザインしたらしい椅子の写真が写っていて、囲炉裏があるのが見えると思います。
タウトが高崎の群馬工芸所に行って、そこから『群馬工芸』という雑誌が発行されました。これはタウトが関わったわけでは無いのですが、表紙のデザインを渡辺先生がやっておられるので、いきさつをお聞かせください。
渡辺:
僕とタウトさんのことを話すと長くなりますけど。群馬工芸というのは僕が表紙から中身の一部を書いた群馬県の工芸所の機関誌でした。『群馬工芸』の中身と表紙のデザインを僕がしました。
森:
最初はミラテスの方でタウトと会われたのですね。
渡辺:
私が東京高等工芸学校を1936年に出て最初に木檜恕一先生という、木材工芸科の科長の先生から、群馬県の指導所に行くようにと就職のお世話をして頂きました。
高崎の井上工業の社長さんだった、井上房一郎さんが経営して銀座にミラテスというタウトのデザイン作品を売る店を開いていたのです。僕が卒業して、群馬の工芸所に行く前に、ミラテスで3ヶ月位いて、群馬県に行ったわけです。
高崎ではタウトのことを『タウトさん、タウトさん』と呼んでいて、市民からも親しまれていました。断片的なことを話しますが、僕が卒業してまず高崎で落ち着いたのは、タウトがいた洗心亭に僕も下宿していたのです。ですから、タウトさんの朝から晩までのことをよく知っていました。
森:
洗心亭は小さいおうちですよね?
渡辺:
そうですね。
森:
本堂のほうですか?
渡辺:
タウトさんがいた方の家の一間にいました。
森:
それは何ヶ月くらいですか?
渡辺:
3~4ヵ月です。ですから僕は、タウトさんの高崎での生活ではよく知っている方です。
タウトさんのことを話しますと、日本橋の丸善でタウトさんの個展を開く計画されていたときに、僕がタウトさんのお供をして丸善まで一緒に行ったのですが、そのときは夏だったので、列車の窓を開けたらタウトさんに怒られまして、タウトさんは喘息だったのですね。だから窓を開けて怒られたことをよく覚えています。
森:
洗心亭は今の日本の普通の家のように暖房ができるような状態ではなかったと思いますが、喘息にはとても気の毒な住まいでしたね。その辺は不平をもらしたことはなかったのですか?
渡辺:
タウトさんから、そのようなことを聞いたことはありませんでした。
森:
先ほどの図面の話なのですが、タウトが設計したものを渡辺先生が工芸所で図面を書きおこしていらしたのですか?
渡辺:
はい。していました。
森:
今知られているものは材料が竹とかに限られているものですが、仕事のペースとしてはそういうような傾向の製品を計画的にどんどんつくっていこうとしていたのですか?
渡辺:
それほどではなかったと思いますが。
例えば、伊勢崎でつくられていた銘仙を使って日傘につくりました。かなり日常生活に近い工芸をつくっていたように覚えています。
森:
仙台時代の記録を読むと、実際に方針を決めて図面を書いてからでも、最終のかたちになるまでの試作のプロセスまでが非常に長いといわれていますね。それは高崎でもそうでしたか?
渡辺:
そうですね。
森:
それは実際にそういう製品をつくる職人さんからすると、今まで体験したことの無い仕事だったと思いますが、職人さんが新しい領域を体験できるということは歓迎されていたのでしょうか?
渡辺:
はい。
森:
先ほど言葉足らずだったのですが、群馬工芸所は高崎で作っていたものを銀座のミラテスという名前のお店で東京の人に積極的に販売していこうとしていたのです。ついでに申し上げておきますと、製品開発して売ることは別に群馬だけの特殊なお話ではなくて、実は殆どの各府県には工芸指導所や工業試験場というような名前の機関があって活動していました。たまたま群馬の場合は、このジャンルにすごく興味のあった井上房一郎という有能な人物がいました。
渡辺:
はい。井上さんは高崎で建設業を経営していました。
井上さんのお父さんが高崎の山の上に観音像を建てた人でした。井上房一郎さんはフランスの留学から帰ってきてしばらくして僕が工芸所に入ったのですが、工芸所と井上さんというのは密接な関係であったわけです。
森:
群馬の場合は強力な推進者がいて、銀座にお店も出せた。普通はそこまでなかなかいけずに、地元でいろいろな実験をしたり、講習会を開いたりという活動をしていたわけです。そして、たまたま群馬の場合には、タウトという面白い人がいると知って、是非呼んで地元在来の手工芸品としてつくられていたものを指導してもらい、簡単に言えば、現代風な製品としてもっと販路を拡大できるのではないかと、井上さんはそう思っていたのでしょうね?
渡辺:
井上さんは本当に興味を持っていたと思います。井上さんがタウトを高崎に招いたわけですから。
森:
渡辺先生はタウトが高崎にいるあいだ中、高崎にいらしたわけですか?
渡辺:
ずっといました。タウトさんがトルコに行かれた後もいました。3年くらいいたと思います。
森:
そうするとそれだけ長い間仕事のうえで接点があって、渡辺先生からみたタウトというのはどのような人だったのでしょう?
渡辺:
私が高等工芸を出てすぐ井上工業に就職して、金属の脚の椅子の原寸図を書いていました。椅子の原寸図というのはフルサイズですから立って書くのですが、タウトはそれを見て『おまえは金属の家具をつくっているのか、図面をひいているのか』と、厳しい目で見られたことを覚えています。
森:
それまでタウトが日本にやって来て、いろんな試作などを繰り返していたのは主には木の椅子だったのですよね。
渡辺:
そうですね。もともと、金属の椅子というのは日本では作られていなくて、ヨーロッパから金属の椅子を紹介したのは久米権九郎という建築家ですが、その久米先生が始めて金属の家具を日本に持ってきたのです。タウトは金属の家具を嫌っていましたね。
森:
それは日本人にとっては、木という素材に対して親近感と高い技術力があるから、ということなのでしょうかね。
渡辺:
そうだと思います。