vol.1 コロンボとの出会い

'68年、トリエンナーレのイタリアセクションで
私はブースづくりを手伝っていたのですが、そのブースの前をジョエが頻繁に通りました。
彼の通り道になっていたのです。

メトロクス(以下M):ファバタさん、あなたとコロンボの出会いはいつですか?

イグナツィア・ファバタ(以下F):68年にトリエンナーレ展でコロンボと知り合いました。私はトリエンナーレのイタリアセクションでブースづくりを手伝っていたのですが、そのブースの前をジョエが頻繁に通りました。彼の通り道になっていたんです。そして私たちが何をやっているのかと尋ねてきたのです。

M:コロンボは自分のブースを出していたのですか?

F:いいえ、トリエンナーレ会場内の設営をしていたのです。すごいものを手がけたのですよ。何をやったかお見せしましょう。
ああ、これは磯崎新さんの写真ですね。このときお知り合いになって、思い出にと私が撮ったのです。彼はミラノ風リゾットがとても好きで、よく一緒に食べに行きました。

さて、これがトリエンナーレ会場の地図です。ここに私たちのイタリアセクションがあって、入り口がここで、ここの大きな階段のところに私たちがいました。ジョエは外に出るのに、この階段のあたりを横切っていました。
ここにトンネルがあり、このあたりに外のパビリオンがありました。とてもすてきなパビリオンでしたね。バーをつくって、このあたりをリラックス空間にしました。天井に映写して、皆さんソファに座って上を眺めながらリラックスしていました。

第14回ミラノトリエンナーレ会場構成

第14回ミラノトリエンナーレ会場構成
[第14回ミラノトリエンナーレ 図録より]

ところで私と磯崎さんはこのときジョエの流したスライドをまだもっていますよ。
何かあったときのためにコピーしなければいけないということで、ジョエはそれを私たちに預けたのです。
私はヘルプデスクのようなこともしていたので、ジョエがいつも私のところに来てはこれが欲しい、あれが必要だ、とリクエストをしてきました。
結局、最後はみんな私のところに聞きにくるのでいろいろとやりました。
私が一番若かったので、使い走りのように色んなことを頼まれ、何でも屋になっていたのです。

ジョエのところで人が足りないので事務所で働かないか、と言われました。
彼だけでなく、カスティリオーニなどからも誘いがありました。

イグナツィア・ファバタ女史

スタジオ ジョエ・コロンボ主宰
イグナツィア・ファバタ女史

F:そういったことで、彼のところで人が足りないので事務所で働かないか、と言われました。
彼だけでなく、カスティリオーニなど色々な人から誘いがありました。
工科大学を卒業したばかりだったので、大学の先生に誰の事務所で働くべきか相談しました。
そしたら、先生だけでなく他の人もみんな「ジョエのところがいいと」と言うんです。それは、彼の事務所が一番小さかったからです。事務所が小さければ彼といっしょに仕事を進める機会がより多くなります。
大きい事務所だと、上司であるデザイナーと直接やりとりすることもむずかしいでしょう。
ジョエの事務所は小さかったので、彼とコミュニケーションをよくとって仕事をしていました。
私にとってはそういったコミュニケーションがとても大切な部分なのです。私が事務所に残って、彼が外に出ているときは特にそうですね。

M:つまり、コロンボは知り合ってすぐにあなたに事務所で働くことをお願いしたということですか?

F:ええ、トリエンナーレですぐに。「あなたのように、事務所でいろいろ仕切ってくれる人が必要なのです。自分は外に出ていて事務所にいることが少ないですからね。」と誘われました。

M:ということは、コロンボはあなたの実務能力を買ったわけですね。

F:そうです。彼は私のスケッチを見たこともなかったんですよ。「事務所にいらっしゃい」といわれたとき、私は自分のスケッチを見せようと準備して持っていったのに、彼は別に興味がありませんでした。実務をきちんとしてくれさえすればよかったのです。まあ、彼は物事の管理能力があまりありませんでしたからね。

私はデザインをものに仕上げる仕事でした。
寸法を決める仕事とでもいいましょうか・・・。

M:そのときコロンボ事務所には何人いたのですか?

F:デザイナー2人と秘書1人ですね。(もう1人のデザイナーは弟のジャンニ)

M:その秘書は実務的な仕事をしなかったのですか?

F:秘書にこの仕事を仕切る能力は求められません。
というのは、私のやっていた実務というのは、彼が考案したものを図面にすることなのです。
つまり彼のデザインしたものを作品化するため、それを図面に落とすことでした。技術的な知識も必要ですから、秘書にこの能力を求めることはできません。
今日、およそのデザイナーは図面化する能力も持っていますが、当時はコンピューターがなく、多くのデザイナーはスケッチだけしかしませんでした。
ですから、非常にすばらしいデザインを描けても、その描いたものを製品化するための図面を引けるデザイナーは少なかったのです。

M:あなたはアイデアを具現化する役割を担ったというわけですね。

F:そうです。私はデザインをものに仕上げる仕事でした。寸法を決める仕事、とでもいいましょうか・・。
ジョエの描いたデザインから数値を導き出し、部品メーカーを探し、使う部品を決めたり、構造的な問題点を解決したりしていました。
さらにその部品をどういう風に組み立てるのか、といったことにも私は関わりました。
私にも製図台がありましたし、デザインもしていましたが、それはアイデアを描く目的ではなく、製品として実現させるためのデザインでした。

M:そういう仕事ぶりから想像するに、あなたは構造に強いのですね。

F:そうですね。もちろんジョエも構造の部分はよくわかっているので、時間があるときは一人ですべてをこなすのですが、問題は時間がなかったことですね。

これがジョエから渡されたアロジェーナのデザインです。
あまりに抽象的で、ここからどうやって作れと言うのでしょうね。
でも、彼のデザインを見て何がつくりたいか、他の人はわかりませんが、私にはわかりました。

F:アロジェーナのケースをとりあげましょう。
これがジョエから渡されたアロジェーナのデザインです。
あまりに抽象的で、ここからどうやって作れと言うのでしょうね。
「これにきれいなランプカバーをつけてくれ」とソケットのついた電球だけを手渡されて「この電球を使ってくれ」「機械が入るボックスはこういう風に作ってくれ」という指示があり、私は少しずつ図面化するしかありませんでした。

断面図を描いて、長さをこうしようとか、大きさがどうなるかとか、どういう風に接続しようとか、構造的な部分を考えながら図面に仕上げました。寸法の入った図面を今度は彼に見せ、手直ししてもらいました。
ジョエがデザインしたのはこっちです。
私は全てのパーツの寸法を測り、「ここは熱くなるから熱抜きの切り込みを入れてくれ」などジョエの意見を取り入れながら、少しずつなんとか作っていきました。

コロンボ626(アロジェーナ)

コロンボ626(アロジェーナ)

ボビーワゴン

M:他の例ではどうですか?

F:アリタリア航空の食器のコンペ作品も同じようにして進めていきました。
ジョエは私と話し合いながらスケッチを完成させました。
私が仕様を細かくフォローアップしましたが、それというのもアリタリアの場合、皿は幅がこれぐらいでなければいけないとか、厚みや重さはこれぐらいだとかと詳細に決められたものがあって、とてもやりにくいプロジェクトだったのです。
そういった細かい基準を表にして仕様書をつくり、彼はそれにあわせてデザインだけしていきました。

M:なるほど。

F:これはボビーの図面です。
彼が何をつくりたいかわかっていましたから、どういう風につくればいいか考えるだけでした。
最初は2段でしたが、結局3段にしました。彼のデザインを見て何がつくりたいか、他の人はわかりませんが、私にはわかりました。

M:ファヴァタさんはコロンボの本当の右腕だったのですね。

F:そうですね。ジョエの二本目の右腕ですね(笑)
彼が図面を最後まで仕上げられなかったのは本当に時間の問題だけですね。時間があるときは完全に図面化していました。
バカンスの後、彼は図面の束を持ってくるのですが、それらの図面には寸法からなにから詳細に描かれていましたから。

M:彼が亡くなった後も、そのスタイルで製品化されるのですね。

F:そうです。ジョエの遺作デザインがかなりあるのですが、私は彼の生前と同じように仕事をしています。
私の裁量でやることも許されていますから、私の一存で素材やデザインを変えることもできました。もっとも私は彼にだいたい確認をとっていましたけれど。
当時も「この素材だとうまくいかないからこっちを使いたい」といったことを彼に伝えると「わかった」と了承してくれたものでした。

ジョエは考え方がフレキシブルなのですね。
メーカーが来たときに、「このいすをプラスチックで作りたい」ということで、図面の形に合わせて実際プラスチックで形づくってみると、プラスチックだと思ったような厚みにならないため、この時点でデザインを少し変えなければいけなくなります。
そのときジョエは「じゃ、厚めにしよう」とか「細くしよう」とかすぐ代案を出すのです。
使用する素材の変更に応じてデザインの変更をすることもあります。
別の例としては、鉄素材でいすを作る予定だったのですが、ジョエに「その素材が適当かもう少し検討してみてくれ」と言われました。
計算すると実際作品が50キロにもなり、そうすると簡単に持ち上がりません。鉄ではつくれない、ということになり、それじゃかわりにアルミニウムでつくろう、と思ったのですが、アルミは値段が高いのです。
結局このプロジェクトは没になり、他のものをつくることになりました。

ところで事務所での私のもう一つ重要な役割は、ジョエの考えを書き留めることでした。
おしゃべりをしている時にでてきた彼のアイデアをノートにまとめていたんです。1968年以降のアイデアノートは私が書いたものですよ。
もちろん彼に見せて、必要があれば訂正してもらっていました。

Spinny-スピニー

2004年に製品化された「スピニー

お酒はほとんど飲みませんよ。プライベートではとてもまじめな人でした。
でも先に言ったように、タバコをよく吸っていました。
でも最初の発作を起こしたあと、タバコを吸うのを止められパイプに変えたのです。

M:コロンボは突然死ですか?

F:心臓発作の危険性はずっと言われていました。タバコもかなり吸っていましたし、食事も飲み込むように食べていましたし、出張も多く過労気味だったので、おそらく体にかなりの負担がかかっていたのだと思います。まだ若かったですが、食事も摂りすぎないように気をつけていたようです。写真をみていただければおわかりいただけるように、少し太り気味でしたから・・・。

M:お酒をよく飲んでいたのですか?

F:いいえ、そんなに飲んでいませんでしたよ。ウイスキー数杯といったところでしょうか。

M:イメージと大分違いますね。ジョエ・コロンボ、というと、パイプ片手にお酒を飲むイメージがありました。

F:いいえ、お酒はほとんど飲みませんよ。プライベートではとてもまじめな人でした。
でも先に言ったように、タバコをよく吸っていました。
でも最初の発作を起こしたあと、タバコを吸うのをとめられパイプに変えたのです。
パイプだと時間がかかるので量が減りますからね。

M:最初に吸っていたのは、タバコだったのですね。そして健康上の問題でパイプを選んだのですね。

F:そうです。

スモーク・オールドファッション

スモークと名付けられたグラス・シリーズ
写真はオールドファッション

M:ところでコロンボが亡くなったとき、意匠権はすぐにファヴァタさんに移ったのですか?
あるいは奥様のエルダや弟のジャンニが持つ話はなかったのですか?

F:ジョエが亡くなった後、まずエルダに事務所の権利が移ったのですが、私に譲られました。

M:弟さんは関わらなかったのですか?

F:彼は別の活動をされていたので、この事務所の力添えはしてくださいましたが、そういう話にはなりませんでした。

>> vol.2 コロンボ事務所と60年代