ジャンカルロ・ピレッティ氏
スペシャルインタビュー

2001年からジャンカルロ・ピレッティの名作チェア「プリア」を販売していた私達は、製造メーカーであるイタリアのカステッリ社からの紹介で、2003年にピレッティ氏とのインタビューの機会を得る事ができました。紹介文献も少なく、あまり知られていない初期の歩みに関して、ジャンカルロ・ピレッティ氏のロングインタビューを公開いたします。

デザイナーとしての生い立ち

メトロクス
(以下メ)
(以下メ):
はじめにあなたのデザイナーとしての経歴を語って頂けませんか?
ピレッティ氏
(以下ピ)
(以下ピ):
まず私は建築家ではありません。ベッレ・アルテ・アカデミア(ボローニャの美術学校)の出身です。彫刻を作っていましたが、彫刻家ではなくデザイナーになりたかったのです。でも当時は学校がありませんでした。ウルム造形大学に通おうと思い立ったのに、マックス・ビルは閉校しようとしていました。ウルムはもはや歴史の終焉を迎えていたのです。
メ:
ベッレ・アルテに入学されたのはご家族の影響ですか?
ピ:
いいえ。私はデザインができて、それを楽しむことができました。彫刻も好きだったし、芸術的素養があったのだと思います。その後、デザインするにはエンジニアでもなければいけないことが分かりました。
私が何故生涯デザイナーとしてやっていこうと自分で決めたのか、お分かりいただけると良いのですが・・・。一言でいうと、「時間に縛られない彫刻家や画家のように、自由な人生を送りたい」と思ったからです。
メ:
‘65年、25歳の時にカステッリで働き始めましたね?
ピ:
いや、もっとずっと前です。20歳でした。アカデミアに通いながら、カステッリにも行っていました。
メ:
どのようにカステッリと出会ったのですか?
ピ:
私は他の人よりも意欲的な生徒だったのでしょうね。アカデミアの前に通っていた美術学校にカステッリが来たのですが、そこで何人かの生徒と面接したのです。

カステッリ ロゴ

メ:
アカデミアの前の美術学校というのは?
ピ:
高校のことです。
メ:
美術高校ですね。
ピ:
はい、当時美術高校は二つあって、美術高等学校 と 美術専門学校がありましたが、私は美術専門学校に通っていました。その後、その二つは統合されました。
メ:
そこで彼はあなたの意欲を見出したわけですね。
ピ:
いや、私は既にこの時点で何をしたいか分かっていました。つまりデザイナーになることを考えていたということです。
メ:
あなたがアルジェリアに出かけたのはいつですか?
ピ:
はい、カステッリは・・・何処にそのことが書いてありましたか?どうやって知ったの?あなたは私よりもよく知っていますね(笑)。
カステッリは室内装飾をやっていて、大使館や政府関係の内装の仕事を請け負っていました。何と言うのか・・そう、インテリアデザイナー。私にそれをやれ、と。それでアルジェリアに送られたのです。とても嫌でした。
メ:
何が嫌だったのですか?
ピ:
私はアルジェリアに行きましたが、気に入らなくて、こう言いました。「皆さん、僕は帰ります。これは僕の仕事じゃない。僕はデザインがしたいのであって、室内装飾をやりたいわけではないのです。」
メ:
それはいつ頃ですか?
ピ:
21歳か22歳の頃かな。
メ:
アルジェリアは去ることになったのですね。
ピ:
ええ、でも創業者のカステッリ翁は「どうして去るのだ」と聞くので、「僕は室内装飾の仕事ではなく、デザイナーになりたいのです。」と答えると、「じゃあ」と新たな仕事を提案してくれました。私は教職につくことになったのです。「いいか、午後は君の自由だ。スタジオと給料を提供する。好きなことをやっていい。」と彼は言ったのです。
メ:
カステッリのところで働きながら学校に教えに行って、それは経済的な理由ではないと・・・。
ピ:
もちろん経済的な面もあります。でも教えるということは若い人達との接触もあり、好きでした。私自身、学校では良い成績だったので校長に「残って教師にならないか」と言われていました。すぐノーと言いましたが、何年か経たら戻ってくるようには言われていました。
メ:
一つ確認したいことがあります。カステッリは内装そのものを請け負っていたということですか?
ピ:
そう、内装工事です。
メ:
それでは家具などは売っていなかったのですか?
ピ:
少しはありました。クラシックで取っ手が真鍮のピカピカしたものとか。でも官庁の仕事が多かったので、大規模な施設のテーブルなど特注ものがメインです。アルジェリアでも私はそういったものをデザインしましたが、好きではありませんでした。いずれにせよ、その当時は家具を商売としてはしていなかったのです。